森と人の「生きる力」を取り戻すために
森林を再生させる植樹活動と環境教育

自然に囲まれた事務所には、職場体験に来た人が宿泊できるスペースも
1981年。倉本聰脚本のテレビドラマ「北の国から」の放映が始まり、富良野の雄大な自然が全国の視聴者を魅了した。
倉本氏が市内に開設した脚本家・俳優養成施設「富良野塾」は、2010年に惜しまれつつも閉塾したが、
2006年に設立したもう一つの塾は、着実に歩みを進め続けている。

倉本塾長直筆の表札
主な事業の一つは、閉鎖したゴルフ場の跡地を森林に戻すための植樹活動。
約34haに15万本の木を植えるという、実に壮大な目標がある。

森をつくるということは、ただ木を植えるだけではなく、苗木の準備や草抜きなど、育樹作業も大切な仕事
もう一本の柱は、森林再生の場をフィールドとする環境教育事業だ。
「地球」と「五感」をキーワードとし、自然を肌で感じながら、地球環境の大切さを考える体験プログラムを実施。
「地球は子孫から借りているもの」というメッセージを、年間5,000人以上の参加者に伝え続ける。
塾の活動は愛媛や京都、福岡、東京にも広がり、全国各地で出前授業も行う。

中島さんは温暖な気候の静岡から、寒さが厳しい富良野へ移住。四季のはっきりした風土に魅せられた
勤続10年のプロジェクトマネージャー・中島吾郎さんは、静岡県出身。
工学部を卒業し、海外勤務も経験した元エンジニアだ。
たまたま東京で芝居を見た時に自然塾のチラシを見つけ、倉本氏の自然に対する思想に共鳴。
「北の国から」の映像でしか知らなかった、遠い富良野への移住を決意した。

富良野自然塾は、今治(愛媛)、宮津(京都)、北九州(福岡)、立川(東京)にも、同じコンセプトのプログラムを展開している
「静岡の家族には猛反対されましたよ。そんな寒いところで生活できるのかって。でも、自然塾の仕事が面白そうだと思ったから」と、
中島さんは屈託なく笑う。

厳しい自然の中でコツコツと取り組んできた、森づくりや環境教育。春の訪れと共に森での仕事が始まる
富良野で初めて冬を迎えた年は、降り続く雪と鉛色の空に気が滅入り、故郷の青空を恋しく思ったこともある。
しかし、雪解けを迎えて緑が芽吹く季節には「こうやって春が来るのか」と、北の大地の輝きに目を見張った。
市民劇団に参加して地元の知り合いが増え、インストラクターに必要な表現力も磨いてきた。

市民劇団「へそ家族」。個性的なメンバーが力を合わせひとつの舞台を創り上げる
イベントの企画運営だけでなく、自然塾の季刊誌「カムイミンタラ」の編集、企業との商談、助成金の申請、福利厚生の向上といった裏方的な業務も幅広く手がける。

アイヌ語で“神々の遊ぶ庭”を意味する「カムイミンタラ」は富良野自然塾の季刊誌として2007年冬に創刊。現在 vol.38となる2017 春号が発売中
夏の繁忙期には北海道内の学生や、プログラムを体験してファンになった全国各地の社会人が富良野に滞在し、ボランティアスタッフとして事業をサポートするが、
年間を通して活動する常勤スタッフは10人に満たない。
少数精鋭のチームに求められる人材はどんな人なのか、中島さんに聞いてみた。

屋外での活動から帰ってきた後は、なごやかに会話が弾む。アットホームな雰囲気の職場だ
「自然塾の事業は、新製品の発売で売り上げが急激に伸びる企業のように、すぐ成果が出るわけではありません。答えが出るのは何十年も先。目に見えない目標のために、自分が活動を維持していくという意識を持って自主的に動ける人、3、4年後には事業をある程度まかせられる人を求めています。将来はここで学んだキャリアを生かして外へ羽ばたき、環境活動の種を他の土地へ運んでもらってもいいと思っています」。
塾の仕事が面白そうだと思った人には、2、3日でも1週間でも、一度職場体験に来てほしいと中島さんは言う。
採用条件は「元気がよくて、嘘をつかない人」。
今のキャリアやスキルは問わないそうだ。

冬はスノーシューツアーの季節。 白銀の世界で自然を体感できる貴重な時間を提供する
同じく勤続10年のチーフインストラクター・小川喜昌さんは、大阪出身だ。
富良野に来る前は東京で4年間、トラックドライバーの仕事で生計を立てながら、北アルプスの登山ガイドを務めていた。
山は何度登っても新鮮な驚きがあり、夏は1日も休みがない生活にも疲れは感じなかった。
だが、トラックに乗り、渋滞した道路で排気ガスにまみれて過ごすうちに、
「もっと人や車が少ない土地で暮らしたい」と感じる時が増えた。
離島への移住を目指し、小型船舶操縦士の免許も取得。
そんなある日、千葉の観光牧場へ熱気球フライトのイベントを手伝いに行き、富良野から来ていたアウトドア会社の社長と出会う。
田舎暮らしがしたいと語る小川さんを、社長は「うちに来れば? 寮もあるよ」と誘ってくれた。
「1シーズン行ってみて、合わなかったらまた考えよう」。
富良野に移り住む決意は、すぐに固まった。

大阪から東京を経て、富良野へ。 都会の暮らしに疲れた経験があるからこそ、富良野の魅力を熱く語る小川さん
移住して1年目は、アウトドアガイドとして自信を持って富良野を案内したいと、休日をすべてトレッキングや釣りのスポット巡りに費やした。
カヌーなどを体験した観光客は、誰もがほんの数時間で輝くような笑顔になり、喜んでくれるのが何よりうれしかった。
やがて富良野の自然をより深く知るにつれ、もっと踏み込んだ仕事がしたいと願うように。
自然塾のモニターツアーに参加し、環境教育の仕事に強い関心を抱いた小川さんは、2007年に自然塾スタッフとなる。

真っ暗闇の中を裸足になって歩くプログラム「闇の教室」。この扉の向こうに「闇」の世界が広がっている
自然塾では、真っ暗闇の中で、四季を体験するプログラム「闇の教室」に感動する参加者も多い。
視覚を封じ、音や匂いや手触りなどに意識を向けると、普段は眠っている感覚が呼び覚まされていく。
都会では、五感をブロックしないとやり過ごせない時もある。それは小川さん自身が、都会の生活で実感したこと。
だからこそ富良野を訪れた人に、自然を全身で味わってほしいと心から思える。

風倒木や間伐材はストーブの薪として活用し、木の生命を余さずいただく
「分かれ道で迷った末に回り道をしても、振り返ってみればすべてが役に立っています。トラックの運転中にラジオから仕入れた雑学も、会話のきっかけ作りに使えますし。人生の分岐点で、進む方向を判断した自分を100%信頼しています」。
そう言い切る小川さんの笑顔に、人生の年輪の重みを感じた。

冬の凍てつく寒さを肌で感じながらフィールドを見回り、手入れが必要な樹木を探す
インストラクター 兼 自然返還事業担当の野戸陽介さんは、アウトドア用品専門店の店長から転職して2年目。
北海道で生まれ育ち、子供の頃から父親に連れられて野や山で遊んでいたという、根っからのアウトドア派だ。
今もプライベートで夏は沢登りやカヤック、冬はバックカントリースキーに飛び回る。

森林の再生に尽力する野戸さん。 種から手塩にかけて育てた樹木に、未来への夢を託す
転職のきっかけは、環境破壊が進む今の日本に対して危機感を抱いたこと。
「このままでは僕の遊び場も、未来の子供たちの遊び場もなくなってしまう」。
自分にできることはないかと、自然の再生に関わる情報をネットで検索していた時に偶然、自然塾の求人を見つけた。

チェーンソーは、森の健康を守る仕事の大切な相棒。刃の手入れに余念がない
採用後は環境教育のインストラクターとして勉強を重ね、苗木の育成管理とフィールドの管理やメンテナンスに力を尽くす。
畑で苗木を種子から育てていて、芽を出した時は小さな生命に愛しさを感じることも。
「その木が200年、300年と生き続けて、将来どんな森になるのか想像せずにはいられません。ゴルフ場の跡地は、放っておいてもいずれ森に還るでしょう。でも、人が壊した自然を、人の手で元に戻すことに意義があるんです」。
再生しつつある森で、野生動物を見かけることも増えてきた。
ヒグマが現れた時は、「動物がこの土地を森として認めてくれたんだ」と、喜びに胸が震えた。

ゴルフ場を森に再生するために、 息の長い活動が続く
古い樹木の間伐も、野戸さんの大切な仕事だ。
薪割りや草むしりに没頭して、無心になれる時間も楽しい。
屋外での活動が増える夏は、自然の中で五感が研ぎ澄まされ、時計を見なくても太陽の位置で時間が分かる。
「ここにあるのは、オフィスビルで働くのとは違う生き方。間伐で木の生命をいただく時も、自然の恵みに生かされていることを意識し、人間本来の豊かな生活と向き合えます」。

「地球は子孫から借りているもの」。出身地も経歴もさまざまなスタッフが、自然のために力を合わせて頑張っている
森から学べることは、いくらでもある。
生物の多様性、そして生命のつながり。
「教科書から匂いや音は教われない。森が自分の仕事場」と、野戸さんは胸を張る。
人間の世界で森の時間を生きる、スケールの大きな仕事にやりがいを感じている。